まだ歩いています。

好きな本のこと

学生の時から何度も繰り返し読んでいる本がある。大崎善生さんの「孤独か、それに等しいもの」という一冊だ。私は大崎さんの寂しくて透明な文体がとてもとても好きなのだが、特にこの一冊は特別だ。

 

 

「孤独か、それに等しいもの」は短編集で、その中の「八月の傾斜」という話が私は大好きだ。正直明るい話ではない。重く生々しいかもしれない表現もある。それも含めて好きなんだ…!

八月の傾斜は裕子という女性がピアスをあける話だ。あ、ネタバレします。裕子は中学生の時に大久保君という男の子と付き合っていたのだが、大久保君に「ピアスをあけると大切なものを失うよ」と言われてから社会人になってもずっと穴をあけることができないでいた。そんな彼女がピアスをあけ、何を失うのかを思考していく物語だ。

大久保君は元々バンドマンで、歌詞を書いていた。そのうちバンドはやめてしまうのだが詩は書き続けていて、作中でいくつか大久保君の作品が出てくる。そして裕子は何でもない瞬間に大久保君の詩を思い出す。

「時間がもしブーケガルニみたいなものだったとしたら。

過ぎていく日々が、束ねられたハーブのように誇り高く自由なものだったとしたら……。

僕も君も、もっといきいきと生きていける。もっと、もっとだ。」

大崎善生「孤独か、それに等しいもの」)

大久保君の思い描くブーケガルニのことを、十代の時からずっと忘れられないでいる。この話で大久保君と裕子は大学生になったら体を重ねる約束をするのだが、それは叶うことがない。二人が会えなくなってしまうからだ。それが九月の出来事で、それから毎年その九月に向かって裕子の前に大きな坂が姿を現すようになる。それが八月の傾斜だ。

決して消えることはない孤独感のようなもの、見えないそれとどう向き合っていくか。その内容が今も昔もすごく共感できる。大久保君を失った九月に、裕子はとても苦しんでいて、暗く悲しい物語ではある。けれどどんなに急な傾斜でも対策ができること(それが正解でなくてもいい)、転がり落ちることがあっても坂は永遠ではないことをこの本で思い出す。そして自分にも傾斜がある、ということを忘れないでいられる。それを「わかっている」か「わかっていない」かではだいぶ違うと思う。私にとっての傾斜は年末年始と春である。終わりと始まりに怯えているということがよくわかる、、、。昔はただ飲まれるだけだった。どうしよう、何もできない、どうしようと横になって嵐が過ぎるのを待つだけ。ただ、この2年くらいは「いつものことか」と理解して、どうやり過ごすかをゆるーく考えられるようになっている。今年は結構うまくいったような気がする。目を逸らすことがいいと思えない気持ちや、罪悪感はついてまわるけれど、嵐を長引かせないことが大事だと思えるようになった。この先も、生きている限りそういうことはあって、消えることはないのである。ただ前よりも少しだけ、楽な方を選べるようになったのである。

なんかこの記事全然うまく書けていない気がするけどまあいいか!好きな本の話でした。

 

「孤独か、それに等しいもの」大崎善生 [角川文庫] - KADOKAWA

 

終わり。